2006年9月29日金曜日

ものづくりの知恵をITに

とくに内容はないのですが、紹介だけ。

ここが変だよ!日本のIT
第1回:ものづくり現場の知恵を活かし、ITプロジェクトを改革せよ


という連載がThinkITで始まりました。
『月刊ソリューションIT』という雑誌で連載されていたものの抜粋のようです。この雑誌知りませんでした。(あまり普通の本屋の本棚でも見ない気がしますが、今後チェックするようにしよう。あと、あまり普通の本屋で見ないがおもしろいIT系雑誌として『アイティセレクト』というのがあります。)

このブログを始めたときにテーマとして考えていたことにかなりぴったりくるタイトルです。内容としてもアジャイル開発手法を扱っていたりします。

著者はアメリカ人のようですが、日本はものづくり(製造業)が他の国がまねできないほど強いのにどうしてITの現場では、そうしたものづくりの強みをいかそうとしないのか?という疑問があるようです。
むしろ、アメリカの方が積極的に日本のものづくりのノウハウを取り入れています。

今後の連載を楽しみに読んでいきます。

2006年9月27日水曜日

相手に対してもうひとがんばりする

世界一になるには愛が必要

今月号のHarvard Business Reviewにこういう記事があるそうです。
本文は読んでいませんが。

1年1,425台、1か月174台自動車を売った、ジョー・ジラードという自動車セールスマンの話です。
彼の話には、よく「愛」という言葉が出てくるそうです。

それで思い出したのが、ダイエー会長の林文子さんです。
林さんも、ホンダ、BMWジャパン等で、女性でありながらトップセールスであり続けた人です。月間90台以上売っていたとか。

自分は、林さんの『一生懸命って素敵なこと』という本を読みました。
なかなか元気の出る本です。一方で、ここまでがんばったからこその今の林さんかぁ、とも思います。

別の本や公演ですが、林さんの経歴については、

失礼ながら、その売り方ではモノは売れません
国際女性ビジネス会議2004公演

で読むことができます。

高卒でOLとなり、天職である車のセールスになり、トップセールス、支店長、社長になっていくサクセス・ストーリーには、その語り口からか嫌味なところは感じず、すごいなぁと思うばかりです。

とにかく何気ない人間関係を最重要視し、つねにお客さんのためにはどうすればよいかを考えるその姿勢には感服です。自分は営業ではないですが刺激にもなります。

とくに次の2点。

1. まずは人間関係、信頼関係
以前紹介しているアジャイル開発手法でも、直接のコミュニケーションや"ゴシップの共有"と呼ばれるメンバー内の何気ない情報の共有が重要視されています。
林さんにとっても、とにかく人間関係が重要です。お客さんと密なコミュニケーションをとりまずは信頼関係を築くことが第一歩です。ビジネスはその次から始まります。

2. もうひとがんばりして行動に移す
女性であるということは、とくに自動車セールスとしては当時マイナスからのスタートラインだったようです。普通の人(男性)でも、自動車を売りたい、この車に乗って欲しい、と思っているだけではどうにもなりません。とにかく行動に移さないと何も前進はないのです。
林さんは、一日100軒の家を回るというノルマを自分に課し、とにかく回り続けたそうです。そのうち一部の人と信頼関係ができビジネスに発展していったとか。

たとえば、英語ができるようになりたいと思っているだけではどうにもなりません。実際に行動に移さないと。
あれがしたいこれがしたい、あるいはああなって欲しいこうなって欲しいと思っているだけではダメで、実際に行動に出ないとなにも起こりませんね。

アイディアをものにしていったり、ものづくりをしていったりする際にも、そのためのチーム内やお客さんとの人間関係、信頼関係の構築がまずは重要で、そのためには、相手にとってどのようにすれば喜ばれるのかについてつねに考える必要があります。
そして、いろいろなアイディアを考えたり検討したりするだけでなくて、より具体的な方策として行動に移していくことが重要です。

チーム内メンバーに対してはメンバーという関係でしか接さず、お客さんには契約相手、販売相手という関係でしか接しないというのは、楽ではありますがそれ以上の関係になることはありません。したがって、それ以上の発展もありません。
ちょっとしんどいかもしれませんが、そこからもう一歩踏み出して、相手のためになるようなことをプラスアルファで実践していかないと、前には進んでいけないと思います。
既存の関係の中にとどまるのではなく、人としてさらなる信頼関係を築いていくことが重要ですね。なかなかそこまで考えられなくて難しいのですが。

2006年9月26日火曜日

リフレーミングとPICNIC

前回書いたとおり、『日経ビジネスASSOCIE』10・03号に掲載されていた"アクティブ思考法"について。

次のような思考法が紹介されています。

■IT理論
記憶を定着させるのは、Impression(印象)X Times(回数)。

■Lite
Learning in Teaching:教えることで学習する。

■C2理論
成長にはConstructionとChangeが必要。

■アウトバック
アイディアの質の成長には他者へのアウトプットとそのフィードバックが必要。

■リフレーミング
アイディアを次々と生み出すためには、視点を言語化して変えていくことが有効。

■PICNIC
アイディアを具体的な実現策にするためには、Problem→Ideal→Concrete→Negative→Ideal→Concreteというように考えていくべき。

■弱み/常識リバース
弱みは逆転して強みに、常識は覆す。

■K2N
既知(Known)x 既知(Known)=新規(New)。

■CUE
税退蔵、具体例、他との比較、原因と結果、といったように球上に思考を進める。


とくに、リフレーミングとPICNICに注目しました。

ブレーンストーミングしているとアイディアが途中で出てこなくなります。そんなときは、すでに出てきているものの視点をずらしてみたり反対にしてみたりすることが、新たなアイディアを生み出します。

紹介されている例で言うと、
「新規ビジネスを行うのに資金が足りない。その解決策は?」
というお題に対し、
「金融機関に借りる」という解決策を思いついたとすると、そのアイディアは"借り入れ"という視点だと認識しその反対の視点を考えてみる。つまり、"自己捻出する"あるいは"貸す"という視点から資金策を考えてみるとあらたなアイディアが出てくる、というものです。これがリフレーミングです。

ちなみに、最近、MindMapなども利用されれるようになって来ていますが(自分もよくします)、ひねり出したアイディアをカテゴライズしたり関連付けたりすることであらたなアイディアが生まれてくることがあります。
リフレーミングもそういう手法といえます。

そうして出てきたアイディアを具体手策に落とし込んでいくとき、PICNICが使えます。

問題(Problem)に対しそれを解決するような理想型(Ideal)を考え、その理想型を実現するための具体策(Concrete)を検討し、次にその具体策の欠点(Negative)を発見し、今度はその欠点に対する理想型(Ideal)を考え、さらにそれを次なる具体策(Concrete)に落とし込んでいく、というものです。具体策→欠点→理想型→具体策→、、、という部分はずっと続いていきます。

問題や課題があったときに、それにすぐ飛びつくのではなくて、その問題や課題の裏側にあるほんとうの問題は何かをまずは考える必要があります。その結果出てきた問題に対する解決策(1)がPICNICの最初のI(Ideal)でしょう。
次にその解決策(1)を具体的にしていくといろいろな制約や障害が出てきます。それがPICNICのN(Negative)です。
そうした制約や障害に対してさらなる解決策(2)、(3)、、、を考えていくことが重要です。

つまり、問題→解決策というのは、問題に対して1対1でマッピングされた解決策がすぐでてくるようなものではなくて、その本質的な問題の探求とそれに対する何度も何度も繰り返される解決策の具体化の検討を経た結果出てきているものであるべきです。

アイディアを生み出し、それを実のあるものにしていくには、表面的な問題とその解決策(に見えるもの)に飛びつくのではなくて、そうした繰り返しの検討が必要だと思います。そのように本質を熟考したものだけが、ほんとうの解決策となりうるでしょう。

2006年9月25日月曜日

市場主義と寄付の精神

『日系ビジネス ASSOCIE』10・03号で、アクティブ「思考法」というものが特集されていました。それについて、、、書く前に、同じ号の記事で触れておきたいものがあります。それは、

「370億ドルを赤の他人に寄付!? 日本にはない寄付文化とは」

世界第2位の資産家が自己資産370億ドルを寄付すると発表した。米国人はなぜ"赤の他人"に寄付ができるのだろう。

という記事です。

米ファンドレイジング協議会(AAFRC)によると、全米個人の2004年寄付総額は1879億ドル。

アメリカ社会の基底にあるキリスト教には、貧者を救う、富める者が寄付をする、という文化が根底に流れています。たとえば、ヨーロッパの街を歩いていても浮浪者にお金を渡す市民がけっこういます。
ちなみに、キリスト教の後に現れた同系列の一神教であるイスラム教では、"喜捨"という寄付行為が信仰を表す行為として大きな位置を占めています。貧者に寄付することが信仰を高めるのです。

また、アメリカは弱肉強食の格差社会のため、その是正のため強者は得た利益を社会に還元するのが一般的とされます。

政府に頼らない自助精神というものもあるでしょう。

社会的責任という意識もあると思います。

ある意味で、金を稼ぐ能力のある人が最大限その能力を発揮して稼ぎまくって、金を稼ぐ能力の無い人に分け与える、というきわめて効率的な機能をなしているのかもしれません。

どちらが優れているかは別として、能力ある人にもない人にも平等に働く機会を与えようというワーク・シェアリング政策や残業抑制政策よりも、よっぽど効率的でもしかしたら貧しい人にもメリットのある仕組みかもしれません。繰り返しますが、それがいいかどうかは別として。

で、日本では今、アメリカ型市場主義資本主義が導入されようとしています。輸入するのは、拝金主義の部分だけでなく、そうした寄付を行う自助精神や社会的責任も含めて輸入して欲しいものです。

某村上氏は、お金を稼いで何が悪いんですか?と開き直って言う前に(もちろん、稼ぐ能力のある人が稼ぐことは何も悪くありません)、そのうちの一部でも慈善事業に回して欲しい。あるいは、社会のためになるようお金を使って欲しいものです。

アメリカの市場主義を輸入するのであれば、その市場主義が、寄付や自助精神、社会を良くしようという心意気といった文化的側面のうえに成り立っていることを十分理解する必要があるでしょう。

2006年9月24日日曜日

コンシューマライゼーション(消費者先導型IT)

"コンシューマライゼーション(消費者先導型IT)"という言葉が、ガートナーから提唱されています。

「会社のPC」は無くなる

ここでは、企業よりも個人の方が最新の機器を持っていることが多くなってきているので、企業は補助金を出す形でPCは社員に自前で用意させた方がよい、という議論が紹介されています。

セキュリティはどうなるんだ?とかいう話もありますが、ここで話題に上げられているPCはおそらく、会社に対して責任をもつ知的労働者が使うPCということに限定されているんだと思います。
なので、社員が故意に盗み出すというセキュリティについてはとくに考えられていないのだと。

それに関連して、ガートナーではないところから、Web2.0についてもコンシューマライゼーションが指摘されています。

Web 2.0の流れは「消費者から企業へ」--進む「IT技術のコンシューマー化」

コンシューマライゼーションはなにも、今から始まったことではなくて、Windows、Java、そしてインターネットといった現在企業でも一般的に使われている技術はそもそもはコンシューマー向けのものでした(とも言い切れない部分はもちろんありますが)。

個人的には、今のITは実は2種類の別々のものから成り立っているんだと思っています。
1つは古くから企業の中で業務の自動化に使われているIT技術です。
もう1つは個人(コンシューマ)が個人で楽しんだり個人の生産性をあげたりするために使ってきているIT技術です。

これら2つのIT技術は共通に使える部分もありますが、すべてが同じ仕組みで実現できるわけでもないと考えています。

コンシューマライゼーションは確実に起こっていますが、それは古くからの業務の自動化というITではなく、企業の知的労働者が個人やチームの生産性をあげるためのITに対して起こっているのだと思います。
つまり、2つめのIT技術に関しては、コンシューマライゼーションが積極的に起こっています。

もちろん、1つめの業務の自動化というITの分野でもJavaやWindows、IP通信の活用などコンシューマライゼーションは起こっています。ただし、これは、業務の機能要件から起こっているのではなく、技術者の確保やメンテナンス・コストの低減、機器コストの低減という観点からのコンシューマライゼーションです。ある意味、間接的なコンシューマライゼーションなのです。

今後も、コンシューマライゼーションは進んでいくと思います。ただし、適用範囲と時期を誤ると不幸なことになると思います。
知的労働者である社員の生産性を高めるためのコンシューマライゼーションはどんどん進めるべきでしょう。
他方で、業務の自動化という領域においては、急速なコンシューマライゼーションの適用は、要件の無いところにむりやり技術を押し込めようとするあまり褒められたものではないものになると思います。この分野についても、いずれコンシューマライゼーションは進んでいくと思いますが、それはあくまでもコスト削減という観点となるでしょう。ですので、拙速は不幸なシステムを呼び込むだけです。

2006年9月22日金曜日

マスメディアと共同体的記憶とYouTube

Web2.0(笑)の広告学
という連載記事(といってもまだ2回)に、

「テレビはつまらない」。なのに、ネットでテレビを見る不思議

連載第1回に寄せられたご意見。そしてYouTube

という記事がありました。

以前書いたYouTubeとテレビ局と著作権と同様に、「TVはもう見ない。今はインターネットだ。」と言うわりにYouTubeにはテレビの録画が溢れているという指摘です。

それに加えて、昔はテレビを見て次の日学校で「ねえ、あれ見た?」といって友達と話し合っていたのが、各人がパーソナライズされた番組や広告しか見なくなったり、多様なコンテンツの中から自分の趣味にあったものしか見なくなると、双方向だと言われてきたインターネットで逆に双方向性(たぶん友達の会話という程度の意味)が失われるのではないか?と指摘されています。

たしかに昭和の時代は、国民的番組というものが存在し、ある意味それが日本人の共同体的記憶を形作っていたことがあります。力道山、さざえさん、欽どん、8時だよ全員集合、、、
帰国子女の方は残念ながらその記憶を共有しないため、そこが彼らにとっての辛いところでもあります。

ところが、コンテンツの多様化により見るものや時間がてんでばらばらになると、たしかにそういう共同体的記憶を共有しづらくなります。

逆に言うと、話題になったテレビ映像がYouTubeにアップされるのは、そういう共同体的記憶を維持しようという無意識の表れなのかもしれません。
本人はおそらく、明日学校で(?)話題にしようという程度の意図かもしれませんが。

このように、20世紀的な大衆消費社会は、マスメディアによる共同体的記憶の形成というところに多くを負っていたわけですが、21世紀のインターネットの時代にもしそれがなくなるとすると、ポスト大衆消費社会はどのようなものになるのでしょうか?
それとも、やはりマスメディアは強く、人々は共同体的記憶をマスメディアに求めるのでしょうか。

ポスト大衆消費社会のあり方としては、これもよく指摘されることかもしれませんが、"おたく"がいい見本かもしれませんね。非常に細かく趣味が分化して、でも同じ趣味同士の人とはコミケとかいろんなところでつながり盛り上がるという。。。

個人的にはそういう社会はどうも明るく感じません。。。(笑)
たぶん、偏見ですね。。。

ちなみに、下のYouTubeの話題では、YouTubeのようなものでの広告戦略として、バーガーキングがやったことのようなものがよいのではないか?と提案されています。
バーガーキングは、キングというキャラクターの覆面を希望者に配り、それで自由にコマーシャル映像を作ってもらったそうです。

なるほど。

これからのマルチメディア社会では、変に著作権を強化するよりも、自由に使えるようにして自由に使ってもらうことで宣伝効果を得るというのも出てくるかもしれませんね。そうすると映像作品それ自体の質も今とは変わってきそうですが。

2006年9月20日水曜日

フェアユース:創作のインセンティブと利用促進のバランス

ここ何日かで、オンライン動画配信がにわかに活気付いていますね。

先週は、

「YouTubeとMySpaceは著作権侵害者」——レコード会社が訴訟を計画か

というニュースが流れたかと思ったら、今週は、

Warner MusicがYouTubeと共同事業,Warner音楽ビデオをユーザービデオに開放
(メディア・パブより)
Warner、YouTubeビデオの楽曲にライセンス認可
(TechCurnchより)

というニュースが。

ユニバーサルとワーナーという巨大なコンテンツ保有会社が相反する態度を表明したわけです。
ただし、ワーナーの方もライセンス認可権はもっているので、ワーナーの動き次第ではユニバーサルと同じような態度となってしまうわけですが。

せっかくワーナーが前向きな動きをしてくれたのですから、インターネット・ユーザはここでこそまっとうな行動に出るべきですね。
ミュージシャンや映像作家の著作権を尊重しつつ、文化の発展のために正統な引用はどんどんしていくべきでしょう。



他方で、先日紹介したアマゾンのUnBoxやアップルのiTVに関連してこういう記事もありました。

池田信夫blogから
映像ダウンロード

これを読む限り、アマゾンのサービスもアップルのサービスも、テレビで楽しむにはまだまだな気がしますね。
もとよりアマゾンのサービスはPCで見ることが想定されている気がするので、PCで映画やテレビを見たいという需要にはこたえるでしょうが。

アップルのサービスは、ダウンロードに数十分〜数時間かかる上、解像度はテレビで見るに耐えないかもしれない。となると、高いiTVを買って、DVDにも焼けない動画をお金払ってダウンロードするよりは、近くのレンタルビデオ屋に行った方が安くて高画質で種類も多くいいかもしれませんね。

今後に向けての第一歩としての価値は高いかもしれませんが、これでブレークするにはちょっと弱い気もします。

ちなみに、こういうニュースもありました。
Google VideoがAppleのiTVに接近中



さて、話は戻って、ワーナーがYouTubeにラインセンス認可しようとしているのは、TechCurnchの記者によれば、

レコードレーベル側がデフォールトでDRMを用いてコンテンツの再利用をロックしてしまうのではなく、ユーザーの利用形態はデフォールトでオープンにしておき、利用形態を判断した上で著作権者に拒否権を与えるというものだ。これは著作権のあるコンテンツをそのままの形で再利用することのプロモーション効果を現実的に認識した結果だろう。

とのことです。
アマゾンやアップルのサービスがDRMがちがちなのに比べると、ワーナーの考えは非常に柔軟なものになっています。

ところで、アメリカには、文化的資産について"フェア・ユース"という考え方があります。

フェアユースについては、たとえば、
ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)

創作者のインセンティブを損なわない範囲で利用促進による社会的文化的利益を得ることは、"フェアユース"の範囲として著作権法上の制限を受けなくてよいとされています。

Creative Commonsの考え方の根底にもフェアユースがあると思います。

ちなみに、Creative Commonsについては、
クリエイティブ・コモンズは著作権論争に終止符を打つか

そして、ワーナーにおいても、本音は宣伝効果でしょうが、建前としてはこの"フェアユース"の促進ということがあると思います。

実際、これだけ著作権のあるコンテンツが氾濫する中で、従来の著作権の仕組みを維持することはかなり難しいものとなってきています。
テレビ局でさえ、本来であれば著作権者への許可やロイヤルティの支払いをきちんとすべきなのですが、まともにできているのは日本ではNHKだけと聞きます。

そんながんじがらめの著作権の中、文化を促進しろというのも至難の業です。
そこで、ワーナーのように、いったんは自由に使わせておいて、あきらかに著作権者の不利になるような使われ方をしていた場合には著作権法にのっとり制裁を加えるというのは至極まっとうな論理だと思います。

あとは、創作者への(経済的)インセンティブをどうするか、というところです。

ワーナーの場合は、YouTubeでの広告料を折半するようですが、はたしてそれで創作者への還元は十分なのでしょうか?
もちろん、広告料だけでなく、宣伝効果に伴う商品の売り上げも勘案されているとは思いますが。

そこで、たとえば、創作者の経済的インセンティブを税金でまかなうというのはどうでしょうか?文化促進税とかいう名目で。

フェアユースのような社会での公正な利用を促進するためには、国家がそれを保証して公正さと利用の促進のバランスを保つというのは間違ってはいないと思います。
また、Creative Commonsのように文化資産を共有財産として扱うのであれば、共有物の公正な利用という観点でも国家による保証というのはないわけではない。

そこで、文化促進税を徴収して創作者への配当に回す、と。今でもJASRACなどの中途半端な団体が著作物利用料を回収して著作権者に還元していますが、それならいっそう国が税として実施すればどうだろうか?と思ったりするわけです。

もちろん、なんでもかんでも税金でまかなうのはよくない面もたくさん出てくるとは思いますが。
なにより人によってその税金の恩恵を受ける度合いは大きく違いますからね。そういう意味では不平等な税になりそうです。

まあ、まず実現はしないでしょうが、フェアユースやCreative Commonsというくらいならそこまで考えてみるのも一興じゃないか?と思ったりして書いてみました。

2006年9月18日月曜日

アテンション・エコノミーという概念化

前回(「情報の猛烈な再活用を行うWeb2.0」)、Web2.0の話から情報リテラシーの話へと脱線してしまいました。

Web2.0時代の情報リテラシーについてのキーワードとして、"アテンション"もしくは"アテンション・エコノミー"というものがあります。

アテンション・エコノミーについては、Accentureの
Attention,please!「アテンション・エコノミー」の時代へ。
『The Attention Economy』の著者、Thomas H. DavenportとJohn C. Beckに聞く

あるいは、
ktdiskさんのCasual Thoughtsより
『アテンション!』にどれだけアテンションをはらうか?

Impress R&DのWeb担から
アテンションエコノミーとファインダビリティってなんだ?

が参考になります。

簡単に言うと、

情報は広くあまねく行き渡り、膨大な量を参照できるようになった。その代わりに、人々を行動へと促すような情報(=アテンション)が相対的に欠乏している。情報はいつまでもそこに残り続けるが、アテンションはつねに消費されていく。これからの時代は、いかにこうしたアテンションを管理していくかが重要になる。

というものです。

高度情報消費社会において、消費されるのは情報そのものではなくアテンションだというのが、アテンション・エコノミーにおいての主張ポイントです。

情報氾濫時代の情報リテラシーということと言っている内容は似ているのですが、そうした状態や文脈を、消費のされ方とあわせて"アテンション・エコノミー"などとうまく言い当てる形で概念化しているのがおもしろいですね。

ものごとのあり方をどう概念化するか、どうキーワードとして適切なものを生み出すかが、ものづくりにおいてのアイディア作りの重要なポイントの1つです。
この辺が、日本人があまり得意でない気はします。
日本からも、パラダイム変換を起こすような"概念(コンセプト)"を作り出していきたいですね。

で、さっそくこれを金融商品に絡めてビジネスにしていこうという動きがあるようです。

TechCrunchに、

シカゴ商品取引所、アテンション先物取引サービスのROOTに出資

という記事が紹介されていました。

アテンションを先物取引として商品化し、アテンションを提供する個人へとピンポイントに広告を打ちたい企業と、割引などのメリットがあるのであればアテンションを企業に提供してよいという個人の仲介となるようなイメージのようです。

実際に先物市場となるためにはもう少し仕組みや信用などが必要で時間がかかりそうですし、ほんとうに先物取引化できるのかはわかりませんが、アテンションの活用のされ方としては理解できます。

こういうビジネス・アイディアが出てくるのも、"アテンション・エコノミー"という概念化がうまくいった証拠かもしれません。


番外編として、同じくTechCrunchに、
リアルタイムで注目データを追うTouchstoneのAttention Data
として、個人がアテンションを管理するためのツール(touchstone)が紹介されていたのでそれをメモとして残して起きます。

2006年9月17日日曜日

情報の猛烈な再活用を行うWeb2.0

メディア・パブで、Web2.0企業の一覧が紹介されていました。

米VCが出資しているWeb2.0企業とは,便利な一覧表が

リストは、あくまで紹介されているベンチャー・キャピタルが出資しているものに限られますが。
ここに含まれていないものでWeb2.0企業といえば、もちろんGoogleとか、オンライン・アプリケーション・サービス系のZimbraや37Signalsとか、あとFlickrも。
そして、当然日本企業は含まれていません。

個人的には、このリストの4つの分類方法に注目しました。

* Audio, Photo and Video ・・・13社
* Blogging, RSS, Webtops, Wiki ・・・8社
* Search and Classifieds ・・・20社
* Social Networking and Bookmarking ・・・19社

Audio、Photo and Videoというコンテンツ内容が1つの分類項目とされています。そういう意味では、あと、"地図"コンテンツもWeb2.0的なものとしては重要ですかね。
また、先ほどあげた、カレンダーやToDo、情報共有からスプレッドシートなどのオフィスアプリケーションなどをオンラインで提供するサービスもWeb2.0的なものとしてあります。

まとめると、

* コンテンツ系: 音楽、写真、映像、地図
* アプリケーション系: カレンダー、ToDo、情報共有、Wiki、オフィス
* ブログ系: ブログ、RSS
* 検索系: 検索、分類
* ソーシャル系(?): ソーシャル・ネットワーキング、ソーシャル・ブックマーク

いずれも基底に流れるのは、"情報の再活用"という概念だと考えています。それも猛烈な再活用です。

"情報の再活用"のためには、いくつかステップがあって、

1. 情報の掘り出し:人間の脳の中や閉じた環境に眠っている情報を引っ張り出す
2. 情報の捜索:膨大な情報の海から必要な情報を取り出せるようにする
3. 情報の活性化:情報をより使いやすくアクセスしやすい形にする

などが考えられます。

ブログやコンテンツ系は1情報の掘り出しに、検索系、ソーシャル系は2情報の捜索に、コンテンツ系やアプリケーション系、RSSは3情報の活性化にあてはまります。

Web2.0の時代では、情報を搾り出せるだけ搾り出して、それをいかに利用しやすくするか、というところに焦点が当たっているようです。Mash-Upしかり、Folksonomyしかり、SEO(検索エンジン最適化)しかり。



こうした猛スピードで情報があふれ出す世界において気をつけないことはなんでしょうか?広大な情報の大洋を目の前にしてどうすればいいのでしょうか?

* 情報に流されない: 漂流しない
・・・簡単に情報に影響されて信用してしまわない
* 情報に埋もれない: 溺れない
・・・情報が多すぎて何が何か分からず麻痺してしまわない
* 情報を無視しない: 大海を目の前に気を失わない、諦めない
・・・情報が多すぎて見ないようにしてしまわない

そのためには、

* 目的地を決める
・・・何のために情報を得るのか?
* 長期的展望を持つ
・・・どうやったらその目的に到達できるのか(ペース配分など)?目的に達した状態はどういうものか?
* 危険を避ける
・・・情報をいかにフィルタリングし、振り分けるか?とくに危険な情報をいかに見抜くか
* 自制心と倫理観をもつ
・・・大事なのは大海の向こうにある宝物ではなく、最終的には自分や仲間の命である

などが考えられます。

要は"情報リテラシー"なのですが、この膨大な情報の海では、いかに効率的に正確な情報を見抜くかというだけでなく、もう少し長期的な視点での情報への接し方が求められている気がします。

後半は関係のない話になってしまいましたが、ものづくりの世界では、短期的な効率性だけでなく長期的展望(たとえば環境問題)も重要になってきています。情報産業においても、その辺まで踏み込んだ問題設定や技術革新がこれから盛んになっていくかもしれませんね。



ちなみに、
Web2.0のティム・オライリーによる定義は、
Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル

Web2.0企業をリストするサイトとしてこういうところもあります。
Go2Web20.net

2006年9月16日土曜日

アジャイル開発手法の重要ポイント

ITでのアジャイル開発手法についてなんどか書いてきましたが、最近複数のためになる記事があったので紹介します。

Think IT:今こそ再考するアジャイル開発
第1回 アジャイル開発を問い直す
第2回 アジャイル開発のメリット 〜 ユーザのメリット
第3回 アジャイル開発のメリット 〜 ユーザとベンダー共通のメリット

ITPro Enterprise:ITエンジニアのスキル向上ゼミナール
【中級】反復開発 現場のノウハウ 第1回
【中級】反復開発 現場のノウハウ 第2回
【中級】反復開発 現場のノウハウ 最終回

アジャイル開発手法の本質は、反復(イテレーション)でも、テスト・ファーストでも、ペア・プログラミングでもなく、"要求と仕様の変化にソフトウェア・エンジニアリングとして対応する"ということだと思っています。「変化を抱擁する(受け入れる)」というアジャイル開発手法の標語こそ、最重要なポイントだと思います。反復も、テスト・ファーストも、ペア・プログラミングも、それを実現するためのベスト・プラクティスの1つに過ぎません(と私は思っています)。

要求と仕様がソフトウェア開発プロセスに影響を与えるほど変化するようになった背景は、一般的に言われるようにビジネス世界の変化が激しくなったということもありますが、ITが、定型的な入力業務を中心とした帳簿管理の自動化といういわば裏方の役割のみならず、情報をいかにビジネスにいかしていくかという知的作業の領域へと重点が移ってきているということも大きいのではないでしょうか?知的作業においては、新たに創造されたアイディアを迅速に実現することがビジネス上のメリットとなるため、そのツールとなるべきITにおいても迅速な対応が求められます。

そうなると、今まで作ってきたものとは似て非なるものを作ることになりますので、開発手法も同じというわけにはいかなくなってくるでしょう。

ユーザも、ビジネス上のアイディアは出しますが、それがどういうITとしての要求となるのか、仕様となるのかについてはわかっていないことも出てきます。

開発者は、そういう状況の中、ソフトウェア(アプリケーション)を開発していかないといけないのです。

その場合、まず考えられるのは、仕様が決まるまで開発しないというフェージングでは遅すぎるということです。

でも、仕様が決まらないのにどうやって開発するのか。
その難題に答えるのが、反復開発です。

仕様が決まらないのであれば、決まっている範囲の内容でとにかく作ってしまうという発想です。そして、早い段階でできあがったものをユーザに確認してもらって、ユーザのもつイメージと違うところを次の反復で直していくというやり方になります。
実際、できあがるのが海のものとも山のものともわからない段階ですべて仕様を決めろというのがかなり無理のある話です。どういうITシステムになるのかユーザと開発者に明確なイメージがあるような場合にだけこういうことは可能です。

その際重要なのは、ユーザに参加(常駐)してもらって、きちんとレビューを受けれる体制にすることです。そのためには、作る対象をユーザの目線で定義して合意し(ユースケースやストーリーが重要となります)、またその1反復の間で開発するものを明確にするために要求リストを作ってそのうちの優先順位の高いどれを開発するのかをユーザと合意します。その1反復の間は、それ以外の作業や変更要求は一切受け付けません。新たに出てきた要求などは、次の反復で受け入れていくという形になります。

こうすることで、ユーザは早い段階で実際に動くものを見れる上、そのできあがったもののフィードバックとして新しい要求を出していくことができます。開発者は、一時点では確定された仕様の実現に集中することができます。

アジャイル開発手法の反復で重要なのは、1つの反復で開発されるものはけっして"プロトタイプ"ではなくて、きちんとした動くものだということです。
したがって、イメージとしては、1回目の反復で一気に動くものを開発して、後の反復ではユーザによる検収を受けながら品質改良していくということになります。ある意味、運用保守フェーズの品質改良というイメージでしょうか。

実際にプログラムを開発したことのある人なら感覚としてもっていると思いますが、最初に作ろうと考えた機能はけっこう早い段階でできてしまいます。ただし、そこからユーザごとにカスタマイズした動きになるようにしたり、エラーハンドリングしたりと品質を高めていくのに非常に労力と時間がかかります。
アジャイル開発手法では、ある意味、中心機能は最初に一気に作ってしまって、その後は実際のユーザのフィードバックを受けながら品質を高めていこう、という手法とも言えるかもしれません。

また、仕様変更による機能の追加をいかに実現していくかを考えるとき、反復と並んで、その反復期間中にいかに効率的かつ品質高く開発/テストをするかということが非常に重要です。そこで、アジャイル開発手法では、テスト・ファーストと呼ばれる手法やテストツールを重視します。

アジャイル開発手法では、各反復で完成品の開発を目指しますので、原則開発したものに対してその日のうちにテストすることが求められます。それを実現するために、各種テストツールを使用したり、開発するより前に自動テスト用のプログラムを開発したりします。
しかも、テストは統合テストまで求められることがあります。その日に加えた機能については、元のビルドに組み込んで全体としてきちんと動くようにすることになります。
これはそうとうきつい要求のように思えますが、逆に、統合テストまで済ませられる範囲でしか1日のうちに開発しないということでしょう。

また、その日のうちに統合テストまで済ませることで、インタフェースが変わって他のモジュールに影響が出るような場合でも、その日のうちに改修してしまい後々に問題となることはありません。
ウォーターフォール型開発手法では、インタフェース定義は手戻りを防ぐために非常に重要ですが、開発の最初の段階で決まったインタフェースのまま変更できないというはたしかに非常に窮屈な作り方です。
毎日ビルドしていくことで、インタフェースの仕様変更にも耐えていくという開発手法となります(もちろん、大きなくくりでのシステム間インタフェースはこの限りではないですが)。

最後に、短いタイムスパンで迅速に開発していくために、チーム内でのコミュニケーションが非常に重要です。

アジャイル開発手法では、スタンドアップ・ミーティング等ほぼ毎日チーム内で短時間のミーティングをすることを求めることが多いです。その場で、その日のうちに取り組むべきタスクや課題をみんなで確認していきます。
また、ドキュメントによる情報の引継ぎを信用せず、直接コミュニケーションによる情報共有を重視します。とくに、"ゴシップの共有"と言われるように、プロジェクト内外の情報をなんでもチーム内で共有することが重要だとされます。
コミュニケーション・ギャップが、プロジェクトの失敗の大きな要因となることは多々あるので、こういう指摘をノウハウとするだけでなく開発手法の中に含めてしまうのはよいことですね。

というわけで、アジャイル手法は、私なりにまとめると、

* 要求と仕様の変化にソフトウェア・エンジニアリングとして対応する

という目標を実現するために、

1. 反復開発する
2. ユーザに参加してもらい反復内でのタスクを明確にする
3. 反復内での品質を高めるためテストを重視する
4. 開発効率向上のためチーム内コミュニケーションを重視する

ということを心がけることになります。

2006年9月15日金曜日

WiiとiTVとUnboxとロケフリ

naotokの朝トレ日記 Wiiすごすぎで初めて知った任天堂の新ゲーム機Wiiですが、昨日発売日が発表になったそうです。で、これ、あらためてたしかにすごいですね。

【動画付き】「WiiはDSより普及が難しい」、任天堂・岩田社長が語った新ゲーム機への思いとは

フォトレポート:Wiiでできるあんなコト、こんなコト

ゲーム機として斬新なユーザインタフェースにも驚きましたが、やっぱりコンセプトが優れていると思います。

ゲームは海外に輸出できる日本の文化であると言われながらも、最近はやっぱりどこか活発ではない印象でした。そんな中、任天堂は、Nindendo-DSで今までゲームから遠かった女性や大人のユーザをひきつけ、新しいゲーム・カテゴリを作り出してきました。

今度のWiiでは、

どうすれば家族の全員から無視も敵視もされずに受け入れられるか、どうすればWiiを生活の一部として毎日起動してもらえるか。

について徹底的に考えて作られたようです。

据付型ゲームは、いまや家庭の中心であるTVを使って動かします。ところが、今までのゲームの発想では1人でやるか、ゲームのやり方を知っている人同士でやるかがせいぜいで、家族で楽しむという視点はあまりなかったと思います。あるいは、今ひとつ実現できていなかったと思います。
それは、"ゲーム機"という既成概念に縛られていたからだとも言えます。

Wiiでは、"リモコン"と"チャンネル"という誰でも分かるTV概念(用語)を使ってユーザインタフェースを作り出しています。
そして、ゲームだけではなくて、写真をみんなで見ることのできるアルバムのような"写真チャンネル"や、"ニュースチャンネル"、"インターネットチャンネル"、家族のための"伝言板"など、家族でいつも見ることのできる、いつもWiiを起動しておくような、そういう仕組みづくりを考えています。
そういう発想は今までも確かにあったと思うのですが、でも、いまひとつうまく実現できているとは言えなかったのではないでしょうか。
Wiiはもしかして、初めてそういう概念を現実のものとできるのではないか?と思わせてくれます。それは、家族が楽しむことのできるリビングにあるTVを前提としているからのように思えます。

最近の家庭用据付PCでも、リビングに置かれることを前提として音楽プレーヤーと併用できたり、TV番組を見れたりするものもありますが、やはりいわゆるPCは一人で見るのに適していると思います。逆に、TV画面を使って1人でビジネスドキュメントを作ったりするのは非常にやりづらいでしょう。そういう作業ためには、適度な大きさの画面とキーボード&マウスというユーザインタフェースの方が優れているのでしょう。

他方で、家族の中心にあるものとしてPCは、画面も小さく操作もしづらく、閲覧に集中力が必要で、あまり適しているとはいえません。
TVは、画面は大きく操作もしやすく、なにより流し見ることができます。
Wiiは、そうした家族の中心にあるものとしてのTVに対してチャンネル(=付加価値)を増やすものと言えます。

ところで、今週は、アップルもiTVを発表しました。

アップル「iTV」発表への7つの疑問

その直前には、アマゾンが動画配信サービス"Unbox"を発表しています。

アマゾンドットコム、動画配信サービス「Amazon Unbox」を発表

アップルのiTVは、TVの空間にアップルが進出する第一歩です。
大画面のTVで見るには解像度が悪そうだったり、コンテンツはまだDisney系だけだったりして、どこまでこれがうまくいくのかはわかりませんが、Wiiも参戦するTVを中心としたリビングルーム空間の争奪戦が始まりそうです。

アマゾンのサービスの方は、とくにTVで見ることは想定されていないようです。もちろんPCをつないだりすれば見れるのでしょうが、このひと手間のお手軽感が重要だったりします。アップルと比べてコンテンツ数は多そうなので、PCでもっと動画を見たいという需要には十分こたえられると思いますが、TVのリビングルームまで奪えるかどうかは疑問です。そういう意味では、今までの動画配信サービスの延長という感覚です。

その他、TVリビングルームを巡る縄張り争いとしては、ソニーのロケーション・フリーなどもあります。

ソニーのロケーションフリーは放送と通信の壁を壊すか

ただし、これは、TV番組や録画したTV番組をPCでも見れるという機器であり、アップルのiTVとは逆向きと言えますね。

TVリビングルームを巡るデジタル機器の縄張り争いを整理すると、

* PC+IP通信からTVへの進出・・・アップルのiTV
* TVからPCへの進出・・・ソニーのロケーション・フリー
* TVコンテンツのPC+IP通信への配信・・・アマゾンのUnbox、YouTube?
* TVへの新チャンネル(価値)の付加・・・任天堂のWii

コンテンツは、TV番組、映画、プライベート・ビデオ、写真、ゲーム、ニュース、ホームページなどいくつかあって、それをPCで一人で見るか、TVで家族で見るかといういろんな楽しみ方ができるようになってきているということでしょうか。

そして、家族でいろいろなコンテンツを楽しむ、ということについては、アップルのiTVと任天堂のWiiが一歩先を行っている。ただし、映画コンテンツについてはDVDを借りてきたりすれば済むという意味では、アップルのiTVは便利さを提供しているだけであって、新しい家族でのTV の楽しみ方を提案しているという意味ではWiiの方が優れていると言えるかもしれませんね。

2006年9月14日木曜日

YouTubeとテレビ局と著作権

YouTubeは、私的ビデオをみんなで共有するためのサービスとして発足したものと認識しています。

最近では、録画されたTV番組などが多数アップロードされ人気コンテンツとなっているようです。
これは、今の著作権法ではあきらかに違反行為となります。

他方で、そうしたコンテンツに人気が出るということは、あきらかにその需要があるということです。一般人は、そうした過去のTV番組をいつでも自由に見直せることを求めています。

まずは、そうした需要にこたえられていないTV局の怠慢を指摘できるのかもしれません。
あるいは、再配布に当たっての著作権の確認がたいへんでTV局がコストメリットを見出せていないというのが実際で、そういう著作権のあり方を非難できるのかもしれません。

ここにCreative Commonsを適用するとどうなるでしょうか?

やはり、YouTubeに録画TV番組をアップロードする人は、各コンテンツに映っているものの著作権をきちんと確認しないとCreative Commons違反にもなります。

Creative CommonsのFAQより。
ビデオ作品をライセンスするには誰の権利に配慮する必要がありますか?
オーディオ作品をライセンスするには誰の権利に配慮する必要がありますか?

Creative Commonsは賢明なライセンスなので、きちんと著作権についても考えられています。

けっきょく、人が作ったものを、許諾もクレジットもなしに勝手に"公"に再配布するという行為は、現状のどんなライセンスにも法律にも違反した行為となります。

しかも、P2PのWinnyが著作権違反幇助なら、YouTubeもそう判断される可能性は十分あるということになってしまいます。

でも、やっぱり過去のTV番組をいつでも自由に見れるとすごく便利ですね。

これを実現するためには、TV局が番組制作時に、そうした再配布についても契約に盛り込み、自ら再配布するしかないのかもしれません。
最近、東京MXテレビが自社の番組の録画をYouTubeにアップロードしたというニュースがありました。

日本のテレビ局がYouTubeで番組配信、その狙いは

インフラはYouTubeでもなんでもいいと思いますが、TV局自らがこういう風に動いてくれることが、過去のTV番組を見たいという需要にこたえるもっとも早い道だと思われます。

ところで、こうした過去の録画番組という人気コンテンツについて考えるにつけ、やっぱりTV局の作るコンテンツはそれなりに質が高くおもしろいのだろう、ということを思います。だからこそ人気も出るのだろう、と。

これに関連して、

集合知を独自に検索して真実を導く、kizasi

という記事に、「マスメディア報道に徹底的に引っ張られるブロガーたち」という指摘がありました。

極論を言ってしまえば、ブログにしろYouTubeにしろ、草の根だとかロングテールだとか言っても、やっぱりマスメディアに引っ張られてしまうのか、マスメディアのコンテンツのコピーに過ぎないのか、ということを指摘できるのかもしれません。

最近の新しいWebの動きを賞賛する向きの中には、ブログのようなものを取り上げて、マスメディアはもう古い、影響力はなくなっていく、というようなことを言う人もいます。
たしかにそういう傾向もあります。
が、やっぱりお金をかけて作ったコンテンツは質が高いしおもしろい。インターネットの世界では、そのコピーしかできてないのに、マスメディアのコンテンツ力におんぶに抱っこ状態なのに、マスメディアは古いとか言っているとしたら皮肉なことです。
もちろん、それはごく一部の現象だということは重々承知であえて挑発的に書いていますが。

やっぱり、コンテンツによっては、その文化的発展や促進のためにもお金をかけて作るべきものがあり、そうした創作物に対して対価を支払うというのは当然な行いな気もします。

せっかく苦労して作ったもののただ乗り、これは法律的にも道義的にも許されるものではありません。

そう考えてしまうのは、自分が古いからなのでしょうか。

2006年9月13日水曜日

個人情報漏えいが著作権違反???

「DION」個人情報流出、委託先の元社員を書類送検

なんと、著作権法違反での書類送検だそうです。

あまり「ものづくり」と関係ないですが、今回はちょっとこの話題で。

この事件は、ログの保管期間を1年間としていたKDDIで、個人情報を盗んでから1年以上経って恐喝が行われたということで、一部のIT屋(おもにITセキュリティ屋)に驚愕された事件でした。
なぜなら、犯人は、ログの保管期間が1年間だと知っていた可能性が高く、ログが破棄されてから恐喝の犯行に及んでいるからです。
この事件を受けて、いったいログ保管期間を何年にすればいいんだ?ずーっと保管しておかないといけないのか?保管しておくディスクやテープはいったいどれだけ必要なんだ?といったことが脅威となったのでした。

話を元に戻して、個人情報を含むプログラムをコピーして持ち帰ったため著作権違反なんだとか。
うーん、無理やりですねぇ。

実は、今の法律体系では、データを盗み出してもそれ自体を起訴できません。多くの場合は、盗んだデータを入れた外部メディアに対しての窃盗罪などでの起訴となったり、不正にアクセスしたとして不正アクセス禁止法での起訴となります。

個人情報保護法は、個人情報を管理する人や組織に対して適用されるもので、盗み出す人に対してはなんら規定していません。

今回はこういうケースでは初の著作権法違反の適用だとか。

しかし、こういう事例を見ても、無理やり著作権法を拡大していくのではなくて、デジタル時代に合わせて、情報に対する所有権や管理権、利用(参照)権などをきちんと定義し、それに基づく法律を整備した方がよいと思うのですが。。。

著作権と経済的インセンティブ

インターネット時代の創作について考えるとき、創作のための社会的インフラとして著作権と特許と独占禁止法について考えることは重要です。

引き続き著作権について整理。

著作権のもうひとつの大きな神話として、「著作物はお金を払わないと二次利用してはダメ」というものがあります。

これはまったく正しくないです。

著作権にはなんの経済的権利も含まれていませんし、著作権法にも経済的な規定はありません。
著作権法的には、著作者の承認さえ得られれば二次的利用は可能となっています。

現時点では、というか、少し前までは、著作物の流通について出版社やレコード会社など一部の組織が独占できたために、それをうまく利用して著作者へ金銭的還元を実現し創作行為のインセンティブを高めていた、というのが事実です。

さらには、本来、権利や法律というものは人間活動の"公"の部分にのみ適用され私的領域については範囲外となっているはずで、著作権法にも私的利用は認められているはずなのですが、著作物の配布のみならず複製についても経済的利益を確保するために、「私的補償金制度」というものが作られてJASRACにより管理され、著作者へ金銭的に還元されています。これは、複製先となるメディア(テープやCD-R)の単価にあらかじめ補償金を上乗せしておきその金額を著作者へ還元するというものです。

したがって、インターネット時代の創作について考えるときには、著作権という創作者の権利と、創作活動に対する経済的インセンティブについては分けて考える必要があります。

創作者の権利としては、簡単に複製され流通することは自分の作品を広めたり名前を売ったりするには非常に良いことなのですが、自分の名前を付さずに複製されたりする盗作のリスクが増大したり、自分の創作物を自分でコントロールできないという問題があります。
また、経済的インセンティブについては、流通経路が無数となって課金の仕組みを作ることが困難となり、さらには簡単に複製されることによっても課金の機会を奪われてしまいます。

このように、創作物の流通(配布)と複製に関して、どのように創作者(著作者)の権利を守り、かつ経済的インセンティブを維持していくか、というのが重要です。

ところで、ITの世界では、GPLにしろクリエイティブ・コモンズにしろ、著作権については権利を主張しています。ただし、創作物の円滑な流通を促すため、複製権について特殊な規定を設けてはいます。
実際、従来の著作権の考え方では、複数の著作者の承認を得ることが非常にたいへんでめんどうな作業でした。マスメディアについては大きな労力をかけてこの部分をカバーしています。
ITのオープンソースの世界では、この複雑なプロセスを取っ払って円滑な流通を実現したのです。ただし、著作者の権利を放棄したわけではありません。

そして、最近のITの動向としては、プログラムという創作物(著作物)自体については金銭的見返りを得ず、そのプログラムを利用するサービスに対して課金したり、プログラムを利用するときにパーソナライズされた効果的な広告を出すことで金銭的還元を得たりすることが流行っています。

つまり、ITのプログラムの世界では、上の創作物の流通(配布)と複製についてある一定の解を出しつつある、と言えるかもしれません。
流通と複製については著作者の権利をしっかりと主張する代わりに、著作者への許諾などのめんどうな作業は不要としています。これにより、著作者の権利を守り名前を広める(名誉)というインセンティブを維持します。
経済的インセンティブについては、従来の流通と複製の部分ではいっさい諦め(流通・複製は権利の保護と名誉的インセンティブ)、その創作物に関わる別の部分(サービスや広告)で得ようとします。

ITの世界で実現しつつある新しい著作権とその経済的インセンティブの仕組みが成立しうるのかどうかが今試されていると言えるでしょう。

この仕組みは、ある意味、ものを作って対価を得る、あるいは、流通(貿易)を一手に引き受けて対価を得る、という人間社会の古くからの経済を変えるものとなるかもしれません。
実際、現在上のような新しい仕組みで成功しているIT企業の多くは、経済的インセンティブに株のような金融商品もうまく組み込んでいるように見えます(おそらく広告料だけではまだまだやっていけてないでしょう)。

著作権法や各種課金制度により保護されていた従来の創作者や創作物についてもこのモデルがうまくいくのかどうか。
それはもう少し時間をおいてみないとわからないのかもしれません。他方で、ドッグイヤーの世界では時間は矢のように過ぎていきます。遅れをとることが経済的デメリットとなりうる世界です。
そこのバランスのとり方が難しいところです。

2006年9月12日火曜日

著作権がプログラムに適用される歴史的経緯

訳あって更新できていませんでした。

先日の「インターネット時代の著作権」に絡んで、著作権についてもう少し整理。

著作権の一般的イメージとしては、作家や画家、音楽家の創作物についての権利、というのがあると思います。それは、所有権の延長として、物ではない情報についても所有権を認めようという考え方とも言えると思います。

一方で、ITの世界では、プログラムに著作権があります。これについては、独創的なプログラムについてはその作者の権利を認めよう、、、というものでもどうやらなさそうです。
というのも、アルゴリズムやプログラムの仕組み、つまりプログラムの内容には著作権がありません(特許での保護対象となります)。プログラムの著作権とはあくまで書かれたプログラムそれ自体が対象なのです。ここが勘違いしやすいところなのですが。

どうしてこんなややこしいことになるのか?

著作権は、その表現されたものに対しての権利だからです。同じ内容であっても著作者と表現が異なれば別々の著作権となります。
それにしても、ITのプログラムで"表現"なんてほとんど考えないですよね。にもかかわらず、"著作権"が適用されているのがややこしいところです。

それには著作権の成り立ちを考えた方がわかりやすいでしょう。
英語で著作権のことをなんと言うでしょうか?"Copyright"です。
では、フランス語ではなんと言うでしょうか?"Droit d'auteur"です(droitは権利、d'は英語のof、auteurは著作者)。
ドイツ語では?"Urheberrecht"です(Urheberは著作者、rechtは権利)。

あきらかに日本語は、フランス語やドイツ語の翻訳として「著作権」があります。英語の翻訳としてなら正確には「複製権」になりますね?

そう、ヨーロッパの著作権とアメリカの著作権はそもそも違うものなのです。

実際、1886年にベルヌ条約という国際的な著作権に関する条約ができますが、アメリカは参加していません。独自の著作権の考え方を持っていたからです。その後、アメリカがベルヌ条約に参加するのは、なんと1世紀以上過ぎた1989年のことです。

アメリカでは、著作物に対してサークルcを表記し、登録して複製権を管理していました。現在は、登録制は廃止となったそうですが、行政指導としてサークル cは付けているようです。したがって、およそ芸術家の著作物とは異なる企業が作った資料にもサークルcが付けられることになります。複製権の主張という意味です。

で、ITはアメリカで発展してきました。アメリカでは、ITのプログラムについても「複製権(Copyright)」を適用します。プログラムのソースコードをそのままコピー&ペーストで複製することについての作成者の権利の主張です。

という歴史的経緯からもわかるとおり、芸術作品を中心とした表現物と表現者に対する保護を目的としたヨーロッパの著作権と、情報の複製の保護を目的としたアメリカの著作権(複製権)が、日本語で同じ「著作権」と呼ばれているのが混乱の始まりなのです。
もちろん、アメリカでは芸術作品もCopyriht(複製権)で守られていますし、ベルヌ条約に参加したのでヨーロッパの著作権とアメリカの複製権は同等のものとして扱われています。ですので、どちらも「著作権」と表現するのは誤訳ではないのですが、理解をややこしくしている一因ではあると思います。

こういう歴史的経緯を認識した上で、インターネット時代の著作権についてもその運用を考えていくべきと思います。

2006年9月6日水曜日

インターネット時代の著作権

しあわせのくつ

というブログを最近ずっと読ませてもらっています。とくにIT系やインターネット系でのなかなかおもいきったメッセージの強い書き込みが多くておもしろいです。『Web2.0』の梅田さんにも共感されているようです。

YouTubeがらみで著作権についての書き込みがあったので、少し思ったことを。
(Photo: Tatiana Cardeal's Flickr)

時代遅れの著作権が新たに

JASRACの新しい著作権規制に憤っていらっしゃるようなのですが、たしかに、JASRACのような既得権益を守ることしか考えていない業界団体のやることは非常に醜くく批判に賛成です。

が、次の言葉は気になりました。

メディアはもうごく一部の特権階級を持った人々のものではないこと、コンテンツは複製され再利用されていくということ、それによって価値が増すということを理解してほしい。もうルールが変わったんです。ナップスターとiTunesのレッスンによってハリウッドは既に学んだというのに、いったい何を言っているんでしょうか?

梅田さんの『Web2.0』でも感じるのですが、「われわれはもう先に行った。お前ら早くついて来い」というムードには違和感を覚えます。

じゃあ、インターネット世代(自分も世代的にも考え方もそこに含まれているつもりですが(笑))はどういう著作権のあるべき姿を提示できているのでしょうか?ストールマンのコピーレフトやGPL?それをすべての著作物に適用するのでしょうか???

著作権法は300年の歴史のある法律ですし、ここ5年や10年で抜本的に変わるようなものでもないと思っています。
現状の著作権法はさまざまな制約や思惑が重なって無残なものとなってしまっていますが、本来は、情報の複製に対して、著作者の権利を守るための法律です。
他方で、情報の独占を抑制し、学問や文化の発展に寄与するようにするのも著作権法の役割の1つです。

そう考えると、インターネットの時代に、著作者の権利を守りつつ、著作物を文化の発展に寄与させるためにはどうしたらよいかを考えるのが、インターネット時代の著作権についての思考なのではないでしょうか。
現行著作権が無視されて垂れ流されていてそれが新しいからそっちの方が正しいんだ(とは言っていないのでしょうが)ということだとしたら、それには違和感を感じてしまいます。

クリエイティブ・コモンズは、その1つの答えだとは思うのですが、その1つのルールを全ての地域のすべての著作物に当てはめることができるのかどうかは、まだまだなんとも言えないと考えています。

梅田さんの『Web2.0』の議論も、インターネットで起こっている現状を追認し、その新しいことが一方的に正しくて、それにみんなついてこいと言うばかりです。
そうではなくて、そのインターネットで起こっている新しいことと既存の古いことをうまく結びつけて、新しい(と思っている)方へと導いてあげるようにするのが、インターネット世代の使命なのではないでしょうか?インターネット世代こそがその導きを行わないと、誰が導くのでしょう?

著作権で言うと、たとえば、作曲家や画家、作家にいきなりGPLあてはめて喜ぶ人は多いでしょうか。やっぱりいろんな形の著作権のあり方があると思います。それでいいとも思います。もしかしたら一時的段階的なものかもしれませんが。

放送メディアにおいては、長い時間をかけてクリエーターと企業、広告代理店、放送メディアのあいだで著作権の取り扱いを決めてきています。そこには微妙なバランスが存在しており、その中の一者だけが喜ぶようにしてもバランスが崩れてしまいます。

インターネットでは、著作権を解放しようという動きが主流なのかもしれませんが、他方で、アメリカではミレニアム著作権法が制定されたりと逆に著作権を強める動きも存在します。

今はどうで、人類の文化の健全な発展のためにはこうあるべきで、そのためには現在のインターネット上の動きがどういう役割を果たしていて、他の領域にあてはめるとこういう風に考えられる、ということをインターネット世代こそが示せていければいいですね。(と、最後は他人事に流れていく。。。)

ちなみに、

ディジタル著作権』名和小太郎

を参考にさせてもらっています。この本は著作権について良くまとまっていておもしろいです。

2006年9月5日火曜日

裏にある普遍的な要求を見つけ出す

熊谷淳一さんの「エンジニアのための視覚伝達デザインの法則」という連載は、ものをつくる人にとってなかなか参考になるおもしろい記事です。

その中でとくに強烈なエピソードが引用されている

デザインは誰のためにするのか?

について。

「花柄を用いる」ことと「決められているロゴを使用する」という条件のデザインコンペにあるデザイナーが花柄も使わずロゴも改良して出して、しかも勝ったというエピソードが紹介されています。

実際には、そのものが本来使われるケースでどうあるべきか、という点を徹底的に考え抜きそれを実現したデザインを出したそうです。

クライアントの表面的な要求の裏に隠れた本当の要求、クライアントさえ意識できていない要求を見つけ出し、それを解決するデザインをするというのは、すごいことです。ものをつくる人としてすごい人だな、と。

曰く、

「ルールは守るべきだが,確信できる改良案が出れば,意味のないルールは破ってもいいのではないか。モノの理念や意味を考えるという普通のことを忘れて,技巧に走るのは根本を履き違えている。(略)」

同時に、クライアントを説得しきるロジックも必要です。このデザイナーは、「ハナ」とは「華がある」ことだと思った、と説明したとか。。。ウ、ウマい???でも、説得できたことが重要です。

2006年9月3日日曜日

データのメタ統合

別の文脈で考えられていた新しいアイディアなり技術が、実は別の文脈で(も)有効だった、という形での革新はけっこう起きていると思います。別のものにつなげていくというのは人間の創造行為の重要な要素ですね。(Photo: jamie3529gq's Flickr)

で、最近、こんな記事を読みました。

セマンティックWebによる情報統合 〜Web 2.0と情報活用を支えるメタデータ第3回:エンタープライズの世界におけるセマンティックWeb

なるほど、と思いました。自分が知らなかっただけかもしれませんが。

セマンティックWebは、文書と文書を意味で結びつけて目的の情報を見つけやすくする技術だと思っていたのですが、そうではなくて、というかそれを応用して、データ統合に使うというのはたしかに有効かもしれません。

別々に作られたデータエンティティをゆるやかに統合したい場合、別の会社同士のデータや、まったく新しく作るアプリケーションと既存のもののデータについてデータ統合したい場合、そういうときに必ず問題になってくるのが、データのコンテクストの問題、メタデータの問題です。つまり、たとえば、RDBで同じ「ユーザ名」というカラムでも、姓と名が分かれていたりいっしょになっていたり、漢字と仮名とアルファベットがあったり、半角だったり全角だったり、桁数の制限があったり、いろいろです。そうした異なるコンテクストのデータを交換したり統合したりする際に、セマンティックWebの技術が応用できるのかもしれません。

ただし、その場合にも、データのメタ情報であるRDFとOWLの定義が非常に大変な仕事ですし、けっきょくデータ・エンティティごとに考えていかなければいけないですし、エンティティによっては非常に曖昧なデータ定義しかない場合もあるのでそれをどう統合するかというのはおそらく頭の痛い仕事となるでしょう。

ただ、標準的な技術があるというだけでも大きいのではないかと思います。

と、思って調べていたら、

メタデータリポジトリィに何を望むか −メタメタワールド−

に、データをメタレベルで紐付ける標準技術がいくつか紹介されていました。こういう技術があったんですね。まったく知りませんでした。今はどんな扱いなんでしょうか?

同時期に、

CMSの可能性を飛躍させるOfficeXMLの適用第2回:Office XMLドキュメントをデータベースで管理する

という記事もありましたが、こちらは上のデータ・コンテクストの問題が十分検討されていないように思えます。XML DBだからはい解決という問題でもないでしょう。とくに、オフィス文書のような超非定型文書を統合するのはなかなか難しそうです。おもしろい発想だと思うのですが。

2006年9月2日土曜日

ITアーキテクトと建築家

前エントリで、アーキテクトと哲学者を併記しました。ここで言っているアーキテクトとは、ITアーキテクトのことだったのですが、当然、ITアーキテクトと本当の建築家(アーキテクト)を比べて考えてみることもおもしろいことです。もちろん、ITアーキテクトの由来は建築家ですので。

最近、こういう記事がありました。

「どんな家が欲しいのか,依頼者には分からない」

テレビ番組の「ビフォア・アフター」ではないですが、漠然としたイメージしか無いところから、建築家(匠)がもろもろの問題を解決し、依頼者を満足させる建築を作っていくというものです。

先の記事でも、

ある一家がやって来て「土地はあるので,そこに家を建てたい」と言う。中村氏は,デザインや間取り,機能についは何も聞かないで,その一家の生活の様子や家庭でのエピソード,大切にしている考え方や好きなことを聞いたり,現地に足を運んで風景を眺めたりしている。

とありました。

つまり、建築家は、その建築を作る環境や依頼者(建築の将来の利用者)との対話から、設計を進めていきます。その過程こそが非常に重要なのです。

建築家であること —建築する想いと夢』日経アーキテクト編

を読みましたが、そこでも、とくに公共建築において、住民との対話が非常に重要だと、何ヶ月も何年もかけて地元住民と議論を重ねて建築を設計していく、という事例が出ています。ワークショップを何度も開いて、住民がどのようにその建築を使いたいのかというのを引き出していっています。

ITにおける設計でも、本当は同様のことが必要でしょう。つまり、要求は依頼者が明確に持っているのではなく、依頼者と十分な議論を重ねていっしょに作っていくものなのです。

最近は、

OpenThology

という要求開発の考え方も流行ってきました。もちろん、従来からも要求管理工学という学問は存在します。よりよいシステムを作っていくために、「要求開発」ということはどんどん大切になっていくでしょう。

ユーザ(設計依頼者)の意識もどんどん変わっていく必要があります。つまり、業者に丸投げするのではなく、業者と議論を重ね、エンド・ユーザも含めていっしょに要求を明確にしていく過程を重視し、その部分にもっと予算をつぎ込むべきです。

とくに、すでに他社で実現している一般的なアプリケーションとか、汎用的なアプリケーションを開発するのではなく、自社のコンピテンシーをいかしたオリジナルなアプリケーションを開発していくのに、エンド・ユーザも巻き込んだ要求開発というのは非常に重要になってくるでしょう。

建築業界でも、ここ10〜20年ほどで変わってきたそうです。つまり、以前は、建築家の個性をいかに表現するかという観点での建築が多かったのですが、最近になって箱物批判や、より都市や景観、環境を重視する立場から、建つ場所の環境や住民との対話を重視した設計に変わってきているようです。もちろん、個性的なデザインの住宅やビルも依然としてあるわけですが。

ITでも、多くのユーザが使うようなものにおいては、業者が主張する新技術をいかに適用するかだけでなく、要求開発という部分が重要になってくると思われますし、その流れこそよいものを作るうえで重要だと思います。もちろん、新しいテクノロジーのものもなくなることはないですが。

 
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