2009年5月11日月曜日

官僚内閣制と政治任用

少し前に、

を読みました。
評判通りの良書で、日本の統治(行政)の特徴を「官僚内閣制」というキーワードでうまく表現されています。

日本は、教科書的には国会議員が内閣を構成する「議院内閣制」だとされています。
ところが、典型的な議院内閣制(イギリスのような)では立法も行政も同じ党派になるため総理大臣の権限が強くなるはずですが、日本では実際には強くなっていません。
逆に、日本人が一般的に権限が強いと考えている大統領制の方が立法府と大統領で党が異なる可能性がある分議院内閣制よりも権限が分散する仕組みとなっています。

日本で総理大臣の権限が強くないのは、憲法上は強い権限を与えられているにもかかわらず、内閣法によって大臣が各省庁の長で各行政責任を持つ(したがって内閣総理大臣は内閣府の行政責任を持つに過ぎない)というように権限が弱められてしまっているからだと言います。憲法は進駐軍によってよくも悪くもある意味理想的に作られましたが、内閣法は戦前からの流れを汲んで憲法を骨抜きにする形で成立したと言えます。ちなみに、戦前の日本国憲法では内閣の規定は無く、「内閣官制」という勅令でのみ内閣が定義されていましたが総理大臣の権限は弱かったようです。理由としては、天皇主権を明確にし、明治初期には天皇に対する江戸幕府のような存在ができることへの反発があったからだそうです。

大臣が各省庁の長として行政を行い、内閣総理大臣はその調整役に過ぎないという統治機構になると、国民から選挙で選ばれた国会議員であるはずの大臣が省庁の官僚を代表する存在へとなります。ここに国会与党と内閣のよじれが生じます。

ただ、戦後高度経済成長期(および戦前の発展期)には、 この官僚制がうまく機能していました。それは、官僚機構が、さまざまな委員会などを設置して業界団体や学者らからうまく意見を吸い上げる仕組みがあったからです。国会議員は国民の代表ですが、官僚もその業界の代表としてうまく機能していたのです。ところが、成熟期に入った社会では業界団体や一部の学者が国民の意見を代表するとは限らなくなり、逆に既得権益を守ろうとする硬直化した仕組みになってきているとさえ言えます。

こうした官僚-内閣制への一つの対案としてあるのが、内閣(もしくは大統領)の意に沿う形での官僚人事のあり方です。その最北がアメリカでしょう。アメリカ合衆国では大統領が代わると約3000人の官僚が入れ替わると言われます。それは、各省庁の上級管理職を大統領が指名する民間人が担っているからです。これにより大統領の意向を各省庁の行政に反映しやすくなります。
大統領任命の政治学—政治任用の実態と行政への影響』デイヴィッド・E. ルイス、ミネルヴァ書房
を読みました。
この本は、「政治化」と称されるアメリカ合衆国での大統領による官僚上級管理職任用のあり方とメリットおよび問題点を各種データを駆使して整理したものです。訳者が人事院の人なので日本の官僚も注目しているということでしょう。

この本では主に、官僚の上級管理職を大統領任命の一般人が行うことのマイナス面が指摘されています。大統領が政治任用を使うのには、一つにはその官僚組織をコントロールし自分の意に沿うように動かしたいのと、もう一つは選挙での協力者や寄付者に対して官職を割り当てるといういわばご褒美との両方があります。ご褒美的にその官職についた人は能力があわないこともあり、その組織のパフォーマンスを下げるだけでなく、専門官僚のモチベーションも下げてしまいます。そうでなくても、上司が外から来て自らのキャリアパスを奪われるだけで官僚のモチベーションは下がりがちとなります。
この本では、統計データを駆使して、一般的に政治任用の割合が高い組織ほどパフォーマンスが劣化することを例証しています。
ただし、政治任用を根本否定しているのではなくて今のアメリカでは多すぎるという指摘です。

また、統計上有意ではあるものの、政治任用の割合と組織のパフォーマンスはきれいに比例しているわけではないので、政治任用が多くてもパフォーマンスがよい場合もあるようです。たとえば、以前その省庁に勤務していた人が政治任用されるとその組織はパフォーマンスがよいようです。

例として取り上げられている連邦危機管理庁(FEMA)のケースでは、政治任用の管理職トップの人選によってこうも組織の動きが違うのかというのがよくわかります。もともとご褒美的政治任用が多くモラルも低くて評判の悪かった連邦危機管理庁に、クリントン大統領が州の危機管理を担当していた経験者のウィット氏を付け、政治任用者数を減らしたり組織の壁を壊したりして劇的にパフォーマンスを向上させたそうです。ところが、その後のブッシュ大統領でまた非経験者が管理職トップにつき、後戻り的に官僚的硬直が一気に進んで、ハリケーン・カトリーナでの後手後手の対応は大きな批判を受けました。

日本では、明治以来官僚は、ある年齢枠での試験合格者で、入った省庁にずっと勤務してきた人間で成り立っています。専門的能力は非常に高いと考えられますが、組織としての硬直化は避けようが無く(ウェーバーのテクノクラート批判を待つまでもなく)、何より成熟化社会における国民の意志を代表しづらくなってきています。本来であれば、選挙で選ばれた大臣が官僚を使って行政を執行すれば国民の意思もある程度反映されるはずですが、実際には多くの場合大臣は官僚に操られているというのが現状です。もちろん官僚をうまくコントロールする大臣もいますが、そういう大臣でも大きな反発や抵抗を受けてすんなりとことを運べていないというのが事実でしょう。

官僚側にも言い分があってどうしようもないのはよくわかりますが、だからといってこのままでいいわけはなく、やはり外からの力でこの硬直化した仕組みを柔らかくする必要はあるように思います。ただし、たとえば官僚組織トップに外部からの人間を置いたりして組織に風穴を開けるにしても、アメリカで現在問題になってきているように弊害というのは起こりえます。それを十分承知した上で、官僚トップを民間人にすることで満足するのではなくそれをうまく機能させることが重要でしょう。

2009年5月6日水曜日

車離れ

クルマが輝いていた時代と今の価値観

日本自動車工業会の「2008年度乗用車市場動向調査」についての記事です。

最近若者の車離れが言われていますが、それを如実に語る調査結果ですね。

「生き方を投影できるモノ」が「ガイシャ」とかかつてはわかりやすい形で存在しましたが、ものと情報があふれる現代ではわかりにくく流動的になっているように思えます。
モノで生き方を投影してしまうと流行り廃りが激しくて自分が消耗してしまいますね。この記事にもあるようにスタイルが重要なのでしょう。

それとやはり気になるのは、日本の産業がある意味車に支えられている側面があることです。このまま人口が減り車を乗る人が減っていくと、日本の産業構造が崩壊してしまいます。車に頼らないような産業構造へと先手を打つ必要がありそうですが、それを車業界に期待するのは酷です。
TVが見られなくなってきているという現象(かつての家電業界の花形)も含めて、まさに今大きな産業構造転換を求められている時代のただ中だということでしょうか。

 
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