2009年6月24日水曜日

英語が普遍語となる時代に日本語の価値とは何か

遅まきながらネットで話題という

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗、筑摩書房

を読みました。

たとえば、こういう方々が話題にされています。

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html

英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2008/11/10/entry_27017805/

まず著者は、「普遍語」「国語」「現地語」を定義します。
「普遍語」とは、多くの権力者や富のある人、学者が読む言語で、その時代の"知"と関係するために必要となる言語です。今だと英語で、英語が読めないと取得できる知識量は減るし、英語で発表できないと広く自分の意見が広がりません。近代以前においては、ヨーロッパのラテン語、中東のアラビア語、東アジアの中国語がこの「普遍語」でした。
「現地語」とは、方言も含めた一般人が日常的に会話する言語です。
「国語」とは、近代国家によって定義されある一定地域で共通に通用する言語です。しばしば「普遍語」を翻訳するための言語としても用いられ、普遍語が兼ね備える政治や倫理、美学、科学などの価値観や論理をそれ自体でも表現しうる言語でもあります。

現代の日本人は標準語としての日本語=国語があまりにも当たり前なので、現地語との差異がわかりにくいですが、アフリカやアジアの多くの国では、普段会話している現地語と国語が異なるため、普遍的知識を手に入れるためにはまずは国語の習得が必要となります。

ところが日本でもかつてはそうでした。明治維新前後の頃は、まだ普遍語といえば漢文(=中国語古典)で、知識人は漢文の素養が必須でした。以前のエントリ「文体は思考を形成する:『漢文脈と近代日本』」でも、江戸時代の日本には方言を除いても6種類もの言語をもっていて、それを統一していく過程が日本語という国語を形作っていく過程だと書きました。

明治の日本の知識人たちは、漢文というかつての普遍語から英語という現代の普遍語への切り替えと、それら普遍語との距離感と大和言葉という日本の伝統言語および関東を中心とした現地語をベースに、今の日本語という国語を作ってきたのでした。その過程でたくさんの熟語(英語の概念を翻訳したもの)も作り出していますし、たくさんの文学作品も著されています。

で、この本の著者曰く、実は、西欧語以外で、このような国語を作り上げ、これだけ文学を高く積み上げられた言語はほとんどないと言います。だからこそ、日本語は、世界の人々にとっても守るべき言語なんだというのが著者の1つの主張です。

たとえば、ノーベル文学賞をとっている非西欧語圏の国を数えるとそれがわかります。100年以上のノーベル文学賞の歴史で、日本とチリが2つずつで最多です。ちなみにチリはスペイン語です。
そもそも欧米以外の国で受賞している数は、中南米6(すべてスペイン語)、アジア5(イスラエル含む)、アフリカ4(うち英語の南アが2)です。ただ、こうした国の受賞者も、たとえばベンガル語やヘブライ語で書かれていても、著者は自身で英訳や独訳できるほどの西欧語話者です。東アジアでは、日本人以外は中国人1人だけで(高行健2000年受賞)、その人も中国語で書いていますがフランスへの亡命者でフランス在住です。アジア全体に枠を広げても、あとはトルコ人1人(オルハン・パムク2006年受賞)くらいです。
日本の受賞者2人は(川端康成1968年受賞と大江健三郎1994年受賞)、日本文学という豊穣な土壌の上に育った日本の文学者であり、こうした作家を育て上げるほどの豊かな国語文化というのは、西欧語圏を除けば実は珍しいのであり、これを滅ぼしてはいけないというのが著者の熱い思いです。

一方で、著者のもう1つの主張は、これからは英語の時代だということです。英語が普遍語となり、英語ができなければ世界の知へとアクセスできないようになります。それと同時に、近代以前のように、普遍語である英語と現地語という構造になっていくのではないか?という推測も成り立ちます。
国語というのは近代国家とともに繁栄しえた言語のあり方なのであり、これからのグローバル化社会では各国語は衰退していくのではないか?という推測です。まさに最近流行の帝国論を国語の側から捉え直した考え方です。(そこまで筆者は言ってませんが)

筆者も引用するように、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』では、近代国家の成立に国語が大きな役割を果たしたことが説かれています。国民という想像上の共同体を作るためには共通に理解できる言語の準備が必須です。その国語が成立するためには、共通語の定義だけではなくて、高度な印刷物市場が必要です。日本では江戸時代から印刷技術と市場経済が発展し、庶民の間にも読み物を読む習慣が広がっていたのが、明治維新後の急速な国語と日本国家の成立に大きな役割を果たしました。

ところが、英語が普遍語となると、最先端の知は英語で読み、英語で書く(語る)ことではじめて影響力を持ちうるということになり、相対的に国語の力が衰退していきます。

もちろん、アジアの大部分で考えると全国民が英語話者となるのは英語を公用語にしないかぎりかなり非現実的のように思いますので、そうなるとエリートだけが英語利用者となり二重言語者となって、日本国内には引き続き国語の影響力は残ります。非常にローカルな影響力ですが。

グローバルにその国語にどれだけ影響力があるかは、その国語で書かれたものがどれだけ価値があるかですね。そして、英語が普遍ごとなる中、国語を守っていくためにはその影響力をどれだけ保てるかということになりそうです。

日本語はまだまだ影響力がある方の言語だと思いますがやはり分が悪いです。もはや自然科学分野では英語で論文が当たり前になるでしょうし、今まだ世界に強い影響力を持つ日本企業でも、英語はかなり必須スキルになってきそうです。

日本語という国語が、ただの現地語となっていき、古典として読まれるだけの国文学となっていくのか、それとも影響力を保ち続け、西欧語以外でもっとも影響力のある国語の位置を維持し続けられるのか、今まさにその岐路に立っているということになります。

筆者自身は、日本以外の国では国語を保護するという政策は一般的であり、言語は守らないと滅ぶものである(実際に滅んでいっている言語は多数ある)にもかかわらず、今までの日本では日本語に対する政治的保護策振興策はかなり限定的なものだったと主張されています。たとえば義務教育の時間をとっても日本は先進国で一番国語の時間が少ないプログラムになっています。なので、英語の教育とともに国語の教育も増やせと。

個人的には、英語とともに国語の教育にもっと力を入れるべきだというのには賛成ですが、ただ、今の義務教育の教科書を輪読するだけのあの退屈な国語の時間を増やされても、、、とは思います。国語(日本語)ってもっとおもしろいものですし、何より論理力などはまずは母語ベースで培われると思いますので、そういう普遍語に近づきうるような国語力、論理力と表現力を強化でき、日本語の豊穣な知の体系(自然科学、社会科学,文学含めて)に分け入っていけるような、そういう国語の教育にしていくべきです。

また、一般論として効率性も重要ですが多様性も同じように重要で、その意味で国語としての日本語を守っていく必要性は感じています。逆に、言ってみれば、日本語は世界のために多様性を維持しつつ効率性もある程度追求できている価値のある言語だとも言えます。英語を初めとする西欧語とはまったく異なる言語体系で、これだけ知の体系(文学としても、科学としても、産業としても)を作り上げている言語というのは、多様性という観点から非常に重要です。英語という普遍語と二重で言語を操るという非効率性はありますが、英語という効率性の高い言語と多様性を維持する言語の架け橋になるというのは価値のあることに思えます。

 
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