2009年7月14日火曜日

具体的感情と抽象的論理の狭間に入り込む死刑制度

■序

自分は死刑に反対ですが、死刑の意味や価値についてはある程度認めています。死刑廃止国にも死刑賛成(復活)論者がいるとおり、必ずしもどちらかが絶対に正しいというわけではなく、それぞれの観点なり立場からの主張はあります。それらを統合して考える必要があります。
今回は、主に基本的人権の観点から死刑廃止の根拠について考えを記述します。


■死刑廃止の根拠としての基本的人権

まず、基本的人権は最大限尊重されるということを前提にします。基本的人権は近代国家成立の過程で確立されてきており、現在近代国家の枠内で生活している我々にとっては前提となりえるものです。基本的人権の尊重を認めない近代国家以前やアナーキストについては別の議論が必要だと思われますがここでは触れません。

基本的人権には、平等権や自由権、社会権などがありますが、それらは人間が生まれながらにして持つ権利であり、「公共の福祉を乱さない限り」誰にでもつねに尊重されるべきものです。

したがって、公共の福祉を乱すものには基本的人権が剥奪されえます。ただし、一切合切の人権が剥奪されるかというとそういうことではなくて、基本的人権を最大限尊重するのであれば適切な範囲で剥奪されると考えるのが順当です。被疑者や囚人にも一定程度の基本的人権はあります。「公共の福祉を乱さない限り」ということであるならば、公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです。どの程度剥奪すれば公共の福祉を乱せなくなるかの加減は難しいところですが、いずれにせよすべてを剥奪すべきとはならないということです。

一方で、論理的には、特殊な場合には基本的人権をすべて剥奪してもよいという考え方もあるでしょう。
ここで、「公共の福祉を乱さない限り」という部分の解釈を整理すると、
  1. 「公共の福祉を乱せば部分的またはすべての基本的人権を剥奪できるという解釈」
    すべての基本的人権を剥奪することは、そもそもの基本的人権と真っ向から対立します。つまり、基本的人権には重大な制限があるという立場、もしくは基本的人権よりも上位のより重要な規律を要請する立場です。
  2. 「公共の福祉を乱せなくなる範囲で基本的人権を剥奪できるという解釈」
    最大限基本的人権を尊重する立場です。

殺人は、ある個人の基本的人権をすべて剥奪することです。死刑も、たとえ悪人であってもその人の基本的人権をすべて剥奪します。したがって、殺人も死刑も基本的人権の侵害にあたります。ただし、死刑の場合は、「公共の福祉を乱さない限り」で(1)の解釈をすれば基本的人権の尊重と両立が可能です。一方で(2)の解釈ではすべての人権を剥奪する死刑は基本的人権の尊重と並立しえません。
ここでは基本的人権を最大限尊重するということを前提にしているので、(2)の解釈となり、死刑は基本的人権と両立しえない否定されるべき制度となります。

と、結論づけられれば話は簡単なのですが、 (1)の解釈の基本的人権よりも上位の規律の要請、ということから死刑が基本的人権と並立しうる可能性があると考えています。そうした上位の規律としては、
  • (A)具体的な命や人格は、抽象的な基本的人権という概念よりも重要であり、これの侵害については基本的人権の尊重とは区別して考える必要がある。
  • (B)抽象的な基本的人権などという概念よりも、具体的な遺族の感情や考えの方が重要であり、そちらを尊重すべきである。

つまり、抽象的な基本的人権の尊重という論理を展開する限り死刑は否定されるべき制度です。実際、基本的人権の尊重という考え方は18世紀の啓蒙思想以来正しい考え方としてあるものの、参政権や男女雇用機会均等化や差別撤廃などさまざまな制度の修正や改革によって戦後になっても徐々に整備されてきているのであって、その中で死刑についても昨今になって制度として整備(廃止)されてきているというのが世界的な流れの現状です。
けれども、現実社会においては、抽象的で普遍的な論理よりも重視すべきローカルで具体的な考えや感情があるというのも事実で、それも無視できない要素としてあります。ただし、それでも死刑に関しては普遍的論理を重視すべきと考えています。その理由は、次のとおりです。


■社会を前向きにするために

人権思想の対極にあるものの1つが、命に関する復讐権(報復権)だと考えています。人権思想は抽象的普遍的なものですが、復讐感情は具体的個別的なものに端を発します。
人間には恨みつらみや怨恨が根源の感情として存在します。これは否定できません。ほとんどのつらさや嫌なことはそれを解消するためのバイパスや代替策、見返りがあります。どんなに嫌なことでも金銭的見返りがあれば我慢できたり、つらさもその後の成功という報酬で耐えられたりします。が、怨恨についてはなかなか他のもので置き換えることができません。とくに命に関する怨恨は、死んだ(消えた)本人がもうどういう感情も意識も持てない分、解消するすべもなく遺族に重くのしかかります。その感情のそのままの吐露が、復讐(報復)ということになります。たとえば、子供は殺されたのに殺した側が生き残っているのは許せないという感情です。

けれども、怨恨とそれに基づく復讐は、敵対心を煽ることも事実です。復讐が世界史を血塗られたものにしてきているのはまぎれもない事実です。ほとんどの戦争や内乱、虐殺は、復讐がベースです。しかも、近代国家になって、そうした市民の具体的個別的な復讐心が集団心理となり、抽象的・部分普遍的な国家を動かして、大量殺戮という事態を生んできたのでした。
死刑もまた、国家による殺人です。上の(A)や(B)といった具体的個別的なものごとや感情をベースに、それを抽象的(国家内)普遍的に実現する制度としての殺人行為です。具体的個別的な復讐心は認めざるをえませんが、それを国家制度として成り立たせることに疑問を抱きます。国家制度として成り立たせることで集団心理としての復讐心につながる可能性があります。復讐は復讐を呼びます。敵対心は集団の憎悪を増幅します。人々の心理として復讐心が生じることは否定しようがありませんが、これを国家/社会が支持すると社会の中の憎悪が増幅されてしまいます。
平和な社会を実現するために国家が成すべきことは、社会を前向きにすることであって、復讐心や怨恨といった否定的感情を噴出させないようにすることです。

また、死刑判決は、その人に生きる価値がないことを、人間が人間に対して判断していることになります。つまり、死刑は、生きる価値がないという考えを肯定するものになっています。しかしながら、生きる価値がないとはどういうことでしょうか?そんなことは本人であっても判断できないことです。生きる価値がないという否定的な気持ちを拒否し、すべての人間に生きる価値を認める前向きな社会を肯定していくためには、死刑という制度は矛盾を持ったものになってしまいます。国家として、すべての人に生きる価値を認め、制度としての復讐を認めないこと、その表明が、死刑の廃止という制度的変更には含まれていると思います。

こうした社会を前向きにする力や制度設計というのは侮れないもので、人文社会科学や経済学でも最近注目されてきています。まさに、今国家に求められているものは社会を前向きにするための制度です。


■犯罪抑止力に関して

補足として。
このエントリーは、「naotokの朝トレ日記:死刑制度存置を支持します」を参照先としています。(トラックバック機能がないため)
そこでは、犯罪抑止力が死刑の根拠としてあげられています。
しかし、コメントのやり取りで明らかになったとおり、死刑が積極的に犯罪抑止力として意味を持つケースは非常に限定的であり、実際問題として年何回あるかわからない程度です。しかも、論理的には終身刑で代替可能で、死刑である必然性は象徴的な意味合い以外ほぼありません。犯罪抑止力を高めるためには死刑制度を維持するよりもっと他にやるべきことはたくさんあります。基本的人権の尊重という観点から死刑が論理的に矛盾するのであれば、特殊なケースでしか犯罪抑止力を持たず、かつ代替手段のある死刑は廃止した方がよいということになります。

2009年7月7日火曜日

改正著作権法による国会図書館のデジタルアーカイブ化

DIAMOND ONLINE:グーグル和解問題を国会図書館の動きから考える

先週の記事ですが。
改正著作権法が6月12日に成立しました。

違法ダウンロードばかりが焦点あたっていますが、国会図書館の蔵書のデジタルアーカイブ化というのも大きな話です。百数十億円の予算もついたようです。

かたつむりは電子図書館の夢をみるか:国会図書館が蔵書90万冊以上をデジタル化?!

骨董通り法律事務所:「著作権法改正案の概要(第1回)」


まだ国会図書館内での閲覧しかできず、1968年以前に出版されたものが対象で、主に原資料の劣化防止が目的のようですが、それでも「国民ができるだけ幅広くこれにアクセスすることができるようにする,いわゆるアーカイブ事業の円滑化を図る一環」という法律の目的のとおり、これが広くアクセスできるようになればいいですね。

アメリカでは民間企業であるGoogleが、Google Booksというかたちで訴訟を戦いつつ同様のデジタルアーカイブを進めていますが、日本では一部難航しています。国会図書館という大義であれば、その部分も民間企業がやるよりは進めるかもしれません。
逆に、いろいろ配慮しすぎて数百億かけてほとんど使えないものを作り上げてしまう可能性もあるわけですが。そもそも90万冊のスキャンに百数十億円も必要なのか?というのもありますし(人件費月100万円の200人が1年かかっても24億円)。

実際に、現国会図書館館長の長尾さんは、新刊本含めてデジタル化し、外部の「電子出版物流通センター」経由で有料/広告料でアクセスできるようにすることも視野に入れているようです。まだまだ法律改正等必要で長い道のりはありますが期待はできます。

英語が普遍語となる時代に日本語の価値とは何か」にも書いたとおり、英語が普遍語化する時代においての世界の言語の多様性のためにも、日本語で書かれたものを誰でもアクセスできるようにすることは非常に重要です。国会図書館内だけではなく、公共図書館の端末だけでもなく、ほんとは世界中からアクセスできるようにした方がいいですね。
今話題の「アニメの殿堂」も、作品の展示という観点よりも、国会図書館のデジタルアーカイブ化の中で誰でもアクセスしやすくするようにした方がより効果的なんじゃないでしょうか。(もっとも1968年以前という条件でほとんど引っかかってしまいますが)

 
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