2010年2月2日火曜日

『東欧革命1989』で民衆の力強さにあらためて驚く

東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ヴィクター・セベスチェン

を読みました。500頁以上ある大著ながらすごくおもしろくて一気に読みました。
1989年のあのベルリンの壁崩壊やチャウシェスク処刑の過程がよくわかります。明らかになってきている各国の文書や関係者へのインタビュー等詳細な調査から、あれよあれよという間に崩壊していった東欧諸国でいったい何が起こっていたのかがよくわかるように書かれています。
同時に、国家が崩壊していく様を見るにつけ、果たして我が国は大丈夫かと案じてしまう部分もあります。

まず、ソ連から物語は始まります。
1970年代のソ連はすでに経済的に崩壊の一途をたどりつつあり、当時の書記長ブレジネフは晩年権力の座にありながらかなり耄碌してしまっていたようです。その後、ブレジネフの取り巻きが順番に書記長の座につくものの、ソ連の経済体制の崩壊に歯止めはかけられず、権力サークルの一角まで這い上がってきていた若きゴルバチョフに白羽の矢が止まります。
ゴルバチョフが書記長の座につくと、まずは当時軍拡やアフガン戦争で支出が伸びきり、かつ石油価格安で収入も減って崩壊直前だった経済体制を立て直そうと、アフガン撤退および、ペレストロイカとグラスノスチによる西欧諸国への接近と軍縮による支出削減を企てます。それと同時に衛星国であった東欧諸国への内政干渉を一切引き上げます。

時は約10年前の1978年。ポーランドの大司教がヨハネ・パウロ2世としてローマ法王の座につきます。従来強いカトリック国だったポーランドが、共産党政権下で無宗教化されていたところに、力強い反共の軸ができあがることになります。
その2年後、1980年、同じくポーランドで、後にノーベル平和賞も受賞するものの当時は一電気工だったレフ・ワレサを中心として、共産党直属ではない労働組合が結成され"連帯"として活動を始めます。この後、ポーランドは10年の歳月をかけて、現実主義的な反体制のワレサと、軍あがりの共産党体制派でこれまた現実主義者であるヤルゼルスキとのあいだで、民主化の過程がゆっくりと進みます。1989年にあっという間に民主化して大混乱に陥った東欧諸国の中で、唯一ポーランドのみが漸進的に民主化を遂げたことになります。

東ドイツは、ホーネッカーが長年権力の座にいて、シュタージと呼ばれる秘密警察網がいたるところに張り巡らされ恐怖政治をひいていました。が、後年は病にも倒れ、東欧諸国の民主化の波の中で東ドイツ内の各地のデモ活動などに何も手を打てず事実上の権力を失い、共産党内部から議長の座を奪われてしまいます。ところが、その後、新政権も民衆の支持を得ることができず権力を掌握しきれないまま、かの11月9日を迎えます。このときまでに、多くの東ドイツ市民が、西側との国境を開きつつあったハンガリーやチェコスロバキアの西独大使館経由で西側に逃亡していたのでした。この日、政府で広報的任務をつとめていたシャボウスキが、外国記者を含めた定例記者会見で、その日決議されたばかりの国外旅行の一定程度の自由化の政令を、自身の認識不足と誤りから、たった今からベルリン市内も含めて旅行が自由化されると発言してしまいます。その記者会見がTVで報道されるや否や、東ベルリン市民が大挙してベルリンの壁の複数の検問所に押し掛け、その混乱と熱気に検問所の現場の警備隊が独自の判断で門を開いてベルリンの壁を崩壊へと誘ったのでした。

チェコスロバキアでは、哲学者ハベルを中心とした"憲章77"が反体制組織としてありましたが1989年まではそれほど強い動きはありませんでした。が、この年周りの東欧諸国の揺らぎを受けて、学生デモなどが盛り上がり、11月のあるデモで軍部とデモ隊が衝突して学生の1人が死亡する事件が起こります。これを機にデモは全国へと広がり、その後軍部が民衆側につくことになって、長年権力の座にいたヤケシュは辞任します。ここに"ビロード革命"と呼ばれた少し奇妙な革命が成就したのでした。奇妙というのは、憲章77の中心メンバーや権力禅譲に活躍したのが哲学者やロックバンドメンバーだったというだけでなく、大規模デモのきっかけとなった1人の学生の死が、実は、元々体制側だったはずの治安警察StBの一部が企てた"演技"で"デマ"だったことが後年判明しているからでもあります。もはや体制の維持は困難と考えたStBの一部が民衆側について、この革命を仕込んだということになります。

ハンガリーでは、1989年より一足早い1988年に、長年権力の座にいたカダルが権力の座から去っていました。カダルは独裁者ながらも他の東欧諸国とは異なり穏健で質素、ゴルバチョフはじめ他国からも尊敬を集めていました。ハンガリーに部分的に資本主義を取り入れたり、そもそも1956年の民衆蜂起の際は改革派について人でもあります。
その跡を継いだグロースやネーメトは、東ドイツの崩壊へと結びつくハンガリー国境の開放へと矛先を進めていきます。
偶然にも権力の座を追われたカダルは翌1989年東欧革命の中天寿を全うします。

ブルガリアでは、こちらも長年権力の座に座り続けたジフコフに対する党内クーデターが隠密に進んでおり、偶然にもベルリンの壁崩壊と同じ11月9日にそれが実行に移されました。世界はベルリンの壁崩壊の翌日11月10日にブルガリアでも革命が起きたことを知ります。ただし、引き続き共産党政権が続きます。

もっとも過激な革命が起きたのはルーマニアでした。それはもっとも傲慢で私腹を肥やしていた独裁者チャウシェスク夫妻に対して起こります。ティミショアラという小さな街でのデモ行動に対して、チャウシェスクの指示で軍と秘密警察セクリターテが攻撃を加え60人以上の市民が殺されるという事件が起きます。その数日後、12月21日の正午に、急遽宮殿広場に市民を集めて党本部のバルコニーからチャウシェスクが演説を行いました。このとき、後方の群衆からヤジやシュプレッヒコールがわき起こります。それに対してチャウシェスクはたじろぎ、固まり、動転してしまいました。その様子がTV中継され、その弱さを見た市民がさらにデモとして街に繰り出します。政府側は軍やセクリターテが攻撃を加えますが中途半端なものに終わり、翌日、チャウシェスクの命令で国防省のミレア将軍が責任を取って処刑されると、軍は一斉に翻って民衆側につき、チャウシェスクの命運はつきました。その後、ヘリコプターや奪った車を使って映画さながらに党本部から地方都市へ逃亡しますが、軍によって拘束されます。その間、まだチャウシェスクに忠実だったセクリターテはテロ活動的に市民や軍部に混じって散発的な戦闘を繰り返しブカレストは大混乱の無秩序状態に陥ります。これを受けて権力を掌握しつつあったイリエスクらは、チャウシェスクへの簡易裁判と処刑を決定しそれを即座に実行に移します。
この様子はニュースとして全世界へ報道され衝撃を与え、そして劇的な東欧革命の幕切れへと向かいます。

各国の共通点としては、長年権力の座に座り続けた老齢独裁者の力が弱まっていたこと、経済が崩壊状態だったこと、ソ連からの干渉が一切なくなったこと、などでしょうか。
そして、民衆が"動く"ことの力強さです。これはもしかしたら諸刃の刃で、いい面も悪い面もあるのかもしれませんが。

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